くろーんもーのクロ歴史

2018年の3月に35歳を過ぎてクローン病と診断されたおっさんの備忘録的なブログです。病状や治療のことを書き綴ります。

父の葬儀 その1(1/3)

10/28に父が亡くなり、その後に通夜・葬儀を行った。
「症状がひどくないときで良かったな」と思うことがいくつかあったので、書き残しておく。

 

危篤の連絡が来たのは10/28の夜22時過ぎ。そろそろ眠ろうかというときだった。
電話の音に気づいた妻に「携帯鳴ってるよ!」と言われ慌てて飛びつく。
かかってきた時間と実家からという表示を見てイヤな予感がした。
危篤であること(家族を呼んでくれと言われたとのこと)と、病院の名前を聞くと電話を切り、急いで出かける準備をした。
電話を聞いて一緒に行こうとした妻を押しとどめ、私の出発準備の手伝いと自宅での後方支援を頼み、出かける準備を始めるが、
急激なストレスの増加でトイレに行きたくなり、準備の前にまずトイレに行った。

全く予想外のことだったので、何を持って行けば良いか分からないが、とりあえず着替え、エレンタールを2日分と薬、水筒とコンピュータをカバンに詰めて家を飛び出る。

向こうの様子はわからないのだが、電話口で「新幹線がないのなら明日の始発で良いから」と言われたことが気になっており、妻には状況が変化した場合に対応してもらおうと考えていた。 

着替えているうちに電車を調べてもらい、
乗れる新幹線がすでに無いのは承知していたが、「少しでも実家に近い位置へ移動し、そこからは始発を待ってもタクシーに乗っても良い」と考えていたので、とにかく横浜、新横浜近辺へと向かった。

電車の中や駅のホームでも妻とやりとりをし、夜行バスは予約が埋まっていること、在来線で行けるところまで行くよりも新横浜で早朝の新幹線に乗る方が到着が早いことが分かった。
移動手段が無いことが確定した時点で、妻が気を回して新横浜駅の近くにホテルをとり、支払いも済ませてくれていたので、宿へ向かうことにした。

宿に着いて、父親の状況を確認するため(状況によってはホテルを出てタクシーで向かおうと)電話をかけたが、応答が涙声だったので、何も聞かずとも間に合わなかったことが分かった。
あとから事情を聞いて分かったことだが、危篤の連絡をもらったときには病院で蘇生の措置を受けている状態で、死亡診断書を見ると電話の後30分もしないうちに死亡宣告を受けていた。
救急車を呼び、救命措置を行ってもらっている間も全く帰ってくることはなかったとのことで、どう足掻いても死に目には会えない状況だった。

ただ、”なすすべが無かった”ことは「ああしていれば間に合ったのでは」という後悔を生まなかったので、その点はよかったのかもしれない。

すでに葬儀屋と連絡をつけており、処置が済んだ後に遺体を実家に運んでもらう手筈になっているとのことだったので、朝の新幹線で帰ることにした。
すでに23時半を過ぎており、家に荷物を取り戻ることはできないので妻に電話して、状況を話し、喪服や薬などを持って実家へ来てもらうことにした。
妻は週末から海外へ遊びに行く予定だったので、その後始末と、しばらく仕事を休むための手配をするので、翌日の夕方に実家に着くこととなった。

なかなか眠くならないので駅への順路を確認がてら最寄りのコンビニへ行き、朝ご飯や水を買っておいた。
シャワーを浴び、アラームをセットし、ベッドへ横になる。
遺体と対面していないので実感が薄く、泣くことは無かったが、なかなか寝付けないままベッドへ寝転がっていた。

翌朝はアラームで起きて準備をすると駅へ向かった。
新幹線に乗ってエレンタールとおにぎりの朝食を摂るが食欲は全くなかった。
美味しいと感じないおにぎりを無理に食べ、車内から職場へメールを入れておく。
始業時間になったら電話をすれば良いのだが、通夜の日程がわかっていなかったので、
その日のうちに通夜だと打合せなど準備が慌ただしくて電話を出来ない可能性があったのでその旨も伝えておいた。
そのあとは読書をする気にもならず、景色を見ながらとりとめも無いことを考え、エレンタールを飲みつつ到着を待った。

 

家に帰り着くと玄関に荷物を置いて仏間に向かう。
父親と対面するとさすがに涙が出た。
亡くなったときの様子を聞き、しばらく側に居た後、持ってきた荷物を片付け、通夜と葬儀について確認する。

通夜は翌日で、葬儀も家族だけで小さく行う事を父が希望していたので、町内などへは葬儀後に連絡をすることになり余裕ができた。
通夜が翌日なので、葬儀の際の供花は翌日の午前(通夜の日の午前)の打合せの時に取りまとめてあれば良かったのでこれも気が楽だった。

父の側で式の流れをザッと見ながら過ごしていると9時過ぎくらいから親戚がポツポツとやってくる。
10時頃には、近い距離に住んでいる父の姉妹とその子(私のいとこ)の世代がおおよそ顔を見せることになったので、葬儀・通夜の連絡や供花のとりまとめについて話をした。

葬儀・通夜の連絡については、家族葬ということで町内へは式が終わった後に連絡をすることにし、
父の友人についても同様にしようと思っていたが、せっかちな父の姉の一人がすでに退職教員の連絡網(父は教員をしていた)に流してしまっていたので、とりまとめをしている方に再度連絡をして、近親者で行う旨を再度流してもらうことにした。

供花については父の一番上の姉の娘(私のいとこ)が、父方の親族分の本数、名前などをとりまとめて、通夜の前に知らせてくれることになった。
供花はお金を出してもらうことになるので、こちらから「出してくれ」とは言い出しにくく、親戚のどこまでに声をかけて良いかも迷っていたので、調整してもらえるのは非常にありがたかった。
また、喪主は長男である私がすることにも決まった。

これで、外部への広報や式の段取りが一段落して落ち着いたので職場に電話をし、葬儀・通夜などの詳細の連絡とともに、近親者のみで執り行うことや香典、弔電等を辞退する旨も伝えた。

また、持ってきてほしいもの(ひげ剃り、お金など)を思いついたので妻に連絡をしておいた。
お金は多少余分に持ってきてもらうつもりだったが、5万円程度のつもりだった私に対して、「(経験から)葬式には大きな金額が必要になることがあるから」と20万円ほど持ってくることを提案してきたので、それに従うことにした。

昼食にはうどんを食べたが、朝食の時と同じように美味しく感じず、空腹感も無いので、半分くらい残すことになった。
何を見ても食欲は全く湧かないが、前日の夕食をしっかり摂っていたので、過剰に心配することは無く、エレンタールだけはちゃんと摂ることにして、シェイカーを持ちながら午後は仏間で過ごした。
前日に崩れたお腹の調子は戻ることはなく、時々トイレに行きながらでもあった。

昼過ぎから夕方にかけては遠方から弟が到着したり、葬儀社が来て遺体を冷やすドライアイスを替えてもらったり、妻が荷物を持って到着したりした。
夜には海外から伯父もやってくるので、一気に増える宿泊者の分の布団を各所に出したりもした。

夕方にはいとこ達が再びやってきて供花のリストアップを手伝ってくれ、そこから通夜振る舞いの個数なども決まった。
参列者は年寄りが多いことが予想され、持って帰る物の量が多くなっても迷惑なため、盛籠(供物)は子らだけで出すことにし、果物とジュースを詰めたものにした。

やはり空腹感がないので夕食も控えめにして、かなり早めにお風呂に入って休むことにした。いつもより人が多いので意識して風呂に入って行かないと後の人たちが遅くなってしまう。

夕食後、通夜のスケジュールを見直すと、通夜中だけで無く、通夜振る舞いの際にも挨拶をする必要があることに気づいた。
スケジュールからは最初に挨拶をするのか、最後なのかが分からなかったので両方の内容を用意することにした。
睡眠時間が短いのと練習する時間が無い、精神的な平衡も欠いているので、内容が頭から抜けてしまう可能性を考え、挨拶の内容をメモしておくことにした。

寝る前に挨拶文を書いたが、「手書きをしながら文章を考えることがこんなに面倒くさいものだったか」と愕然とした。
最近は長い文章を手で書かないためか、頭に浮かんだ文章がアウトプットされるのが遅く、目と頭のタイムラグにイライラしてしまう。
文章の修正・書き直しも煩雑で、普段コンピュータ上での作文がどれだけ楽かを思い知らされた。

それでも、書くことが面倒だっただけで、話す内容はすんなりと出来ていた(内容は味気ないが葬儀会社が用意した例文もある)ので、悩むこと無く作業を終えてゆっくり眠りにつくことが出来た。
夜の間にトイレで起きることはあったが・・。


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