くろーんもーのクロ歴史

2018年の3月に35歳を過ぎてクローン病と診断されたおっさんの備忘録的なブログです。病状や治療のことを書き綴ります。

父の葬儀 その3(3/3)

<<その2からの続き>>

翌日は葬儀場近くのコンビニで朝食のおにぎりを買って食べ、式までに部屋を空にするために荷物を自家用車に積み込んだ。

10時過ぎに担当者がやってきて簡単な式の説明を受け、届いた弔電の読み上げ順と内容を省略する分を決めた。
供花・供物代金の支払いについても確認されたので、私が一括で支払っておき、後で親族から回収することにした。
この日も何度かトイレに行ってしっかり準備をし、お寺さんに挨拶とお食事代を渡したりして11時頃から葬儀の受付を開始した。

開式直前に家族から、式中の挨拶に父の闘病の様子を入れて欲しいとのリクエストがあったので、挨拶では用意した原稿に多少のアドリブを入れて対応する。
父はガンを患ってからは見舞いも含めて友人付き合いを断っており、肺を患って寝ていることが多くなってからは近い親族くらいしか会わなくなっていたので、晩年の話はしなければと思い用意していた。その部分をもう少し厚くという要望なので、(いくらでも話は出来るので)苦は無かった。

式の開始から出棺、斎場への到着、火葬の開始までの2時間程度は喪主は席を外すわけには行かないが、特にトイレに行きたくなることも無く無難に終えることが出来た。

斎場では荼毘に付している間、待合室で食事を摂った。
小さな弁当のようなものだったが、その中身にちょっと困った。
味の異なるいなり寿司が3つに唐揚げなどの揚げ物が入っていたのだ。どれも脂っこい。
あまり食べない方が良いものばかりだったが、喪主が率先して着席して食べ始めないとみんな遠慮があり、なかなか手を付け始めない。

最近クローン病になったばかりで、かなり近い人やよく会う人にしか病気のことを伝えていないので、この場に居る多くの人は病気のことを知らない。かといって、この場で言うのも余計な心配をかけることになってしまう。
私の目前に座ったのは、家や葬儀場で父の顔を見る度に大泣きしている一番上の叔母で、子供の時から良く知っている甥っ子が不治の病とはこの場面では絶対に口に出来ない。

「どうしようか」と僅かに逡巡した後、空腹だったこともあり、少しずつゆっくり食べることにした。
私や妻、弟も食べ始めれば、あちこちで弁当を開けて皆も食べ始める。
その様子を見ながらゆっくり食べて、皆が食べ終えていくのを待って、多くを残して蓋を閉じた。

食事が終わったら、歓談しながら時間を確認して、トイレに行っておく。
火葬が終わりそうになると炉に近い位置の待合スペースに移動し、お骨が出てくるのを待つ。
ここでも念のためトイレに行っておき、呼び出しが来たら収骨へと向かった。
焼き上がったお骨は猛烈に熱い。これを親族で順々に骨壺へ詰めていき、収骨は終わった。 

火葬場から葬儀場へ戻り、初七日・十日祭の法要をあげる。
私の宗派は儀式が全体的に簡単なので楽である。葬儀後、数日おきに家に坊さんが来ることも無い。
「農民の宗教なので難しいことはできん」「お釈迦様が助けてくれるからいいかげんでも救われる」が私の解釈。 

法要が終わると精進落としだが、焼き場で食事をしているので、これは持って帰ってもらうことにして簡単に挨拶をして解散となった。
解散後に葬儀社の担当者と家に持ち帰る香典返しの数の確認をして帰宅する。

帰宅してしばらくすると、香典返しなどを持って担当者が家にやってきて仏壇横に遺骨や遺影を納める簡易的な祭壇を組んでくれた。
また、葬儀の料金の支払いについての他、死亡診断書のコピー(今後の手続きに非常に重要な書類)も複数用意し、火葬許可証(火葬後は手続きを経て埋葬許可証になっている)についても説明をし、置いていった。

その後は、遠方に住んでいる家族もいるので、四十九日や納骨のスケジュールを決め、いただいた香典を整理し、父が通っていた通所介護施設から荷物を引き取ったり、父の介護用品の処分をし、早急にしなければいけない手続きと期限、場所をまとめてメモにして、手続きは地元に残る家族に託して帰ってきた。
役所での手続きを帰るついでにやっていこうかと提案したが、私は同居親族ではなくなっているので委任状が必要になるかもしれず、帰ってめんどくさいから良いよと言われたので、その言葉に甘えることにした。