くろーんもーのクロ歴史

2018年の3月に35歳を過ぎてクローン病と診断されたおっさんの備忘録的なブログです。病状や治療のことを書き綴ります。

アヤしい治療とアタラしい治療

この稿は特に根拠のない、自分の思い込みが多く書かれている。読まれる方は注意されたし。


昨今の新型コロナウイルスでもそうだが、
クローン病やガンについて調べていると怪しい治療が目に留まることがある。
難病や命に関わる病気には、その弱みにつけ込むような輩が群がってくるのだろう。怪しい治療がある一方、新しい治療も初期の頃は目新しく、ややもすれば怪しくも見える。
やがて一般的になっていく「新しい」治療と「怪しい」治療の違いはなんだろうかと考えてみた。

 

真偽が定かではない治療方法が、新しい治療になるのか、怪しい治療のままなのか。その差はどこから来るのだろうか。
違いの一つは統計データを積み上げているか、しっかりと(追試験できる形で)公表しているかという点のように思う。

レミケードは日本でクローン病の治療に使用され始めてから15年以上が経つが、今でも「その登場が(良い意味で)劇的な変化をもたらした」と論文に書かれていたりする。

だが、そのレミケードにも出始めの怪しい時期があったようだ。
初期の頃の論文に、「(この論文で)しっかりと解説し、むやみに生物学的製剤を倦厭することがないように」という趣旨の文章が書かれているのを目にしたことがある。

レミケードは最初期に認可された生物学的製剤であった(日本初は2001年、レミケードは2002年に承認)ので、
最先端を離れて時間が経っている医療者にとっては生物学的製剤自体、なじみの薄い、とっつきにくい(≒アヤしい)薬であったのだろう。

当初は倦厭されることもあった薬が、ちゃんとした治療効果(しかも年々アップデートされる)とともに議論され続け、何度も紹介されることで浸透していき、現在ではクローン病患者の半数が使うほどになっている。
効果を宣伝するだけでなく、治療を継続していく課程で二次無効や免疫調整薬との併用などの問題点も明らかにされ、長期使用の安全性については今も調べられている。

科学の分野では、革新的な内容の場合、事象が先に見つかり、理論(なぜそうなるのか?という理由)が追いつかないことがある。
では、「なぜ?」に答えられないとデータは取れないのか?

そんなことは無い。
たとえ「なぜ治るのか?」が不明でも、治った数/治らない数のような基本的な統計はとれるし、それぞれの経過に関してデータを残すことはできる。
公平な比較をするために試験条件をそろえるような工夫もできる。
最新機器だけでなく、そういった地道な、細かな作業も端緒になって「なぜ?」を解き明かしていくのだ。
「なんでそうなるかわからない」現象でも、考えられること、できることは山ほどある。
だから、何か理由を付けて基礎データをとっていない、全く公開していないモノは怪しく見える。

クローン病では、治療をしなくても40年間も寛解を維持した例が報告されている。
この症例は複数回の手術の後、突如寛解に至り、40年間寛解を維持した(ただし、のちに再発、輸血が必要なほどの大量出血をしている)ようで、何もしなくても完治したように見える症例が確かに存在するのだ。
こういった超長期寛解の例は珍しいのだろうが、10年程度の長期寛解の報告はいくつも目にしている。
クローン病は症状の幅が広く、酷い症状で苦しむ人がいる一方で、軽い治療や何かの拍子に治ったように見える人もいる病気なのだ。

放っておいても長期的な寛解を維持する例があり、旧来の治療でも長期に寛解を維持できる症例が複数ある以上、
「治療で寛解にいたったのか、何もしなくても寛解したのか」を調べるには統計的な有意性を示すしかない。
複数の患者に同じ治療を行い、有意な効果があったことを統計的に示すのだ。

だから、アヤしい治療でよくある、治ったと称する患者一人一人のデータ”だけ”をことさら大きくピックアップすることはクローン病では意味が薄い。
治療の統計では無く、"治った"事例をデカデカと掲げているモノはうさんくさく見える。

統計データを積み上げることは、その効果を示すだけでなく、治療法の改善にも役立つ。

レミケードであれば、投与した患者の性質を分析することで「発症してからの期間が短いほど効果が大きく現れる」ことがわかっている。
このことが、後にtop-downと呼ばれる早期に生物学的製剤を使用する治療戦略を生み出す要因の一つにもなった。

多くの患者が長期間にわたって定期的な投与をすることで二次無効の存在やその詳細も分かってきた。

「短期的な効果を検証して終わり」では無く、長期的な影響も調べ続け、データを積み続けているから、当初はぼんやりと感覚的に書かれるだけだった二次無効の記述が、近年は数値を示しての定量的な議論が行われるようになってきている。
ヒュミラは、保険適用されてからの期間がレミケードよりも短いことや当初はレミケードほど使用者が多くなかったことから、ヒュミラのみでの二次無効の詳細を述べた論文は日本語ではまだ出始めたくらいだが、時間が経てば詳細なデータやレミケードとの違いなども多数報告されるようになるだろう。

例えば、「金の延べ棒でたたけばクローン病が完治する」というアタラしい治療があるとする。

こんなモノでも、単純な治療成績(治った/治らない比、治った場合の治療期間の分布)のほか、
クローン病の病態ごと、発症からの期間、それまでに行ってきた治療、性別、年齢などで治療効果を分析することができる。
また、延べ棒の形状、金の純度、金の分布(先端部だけ純金ではどうか?メッキではダメか?)、たたく強度、回数、治療の頻度、皮膚との接触面積、進入角など、より治療成績を上げるための試行も様々にできる。

これらのことを検証せずに、進歩の無い、同じことを延々続けているのならば、
それは、"改良をしても意味がない"アヤしい治療だということを施術者が知っているからではないだろうか。 


アヤシイものは引用がおかしいことも多いように思う。
ちゃんと研究をしたことがある人、高等教育を受けている人ならば、引用がとても大事であることはわかっているはずである。

特に研究や開発の世界では、自分の仕事だけで話が成り立つことはあり得ない。
そのため、他人の成果と自分の成果を切り分けるのは当たり前のことで、引用した部分や引用元を明確に表示する。

どこが引用部か全く分からない書き方はしないし、引用元の書き方も(分野によって細かくは変わるが)心得のある人には通じるある種のフォーマットに沿っている。
これは、いわゆる理系に限ったことでは無く、文系でも通用することで、
測定データでは無く文献を研究の核とする分野の方が厳密に引用の評価をしているかもしれない。

以前、知人の大学教員が「素人とプロの発表は引用の仕方を見ただけでわかります」と言っていた。
彼は素人(:研究活動で生計を立てていない人の意味で言っている)が学会発表することもある分野の研究者なので、
そういう分野で研究者と有意義な議論するためには、良い仕事をするだけではなく「発表中の引用の仕方、書き方をちゃんとすること」、「引用がめちゃくちゃだと、『コイツわかってねーな。データも信用して良いのか?』と軽んじられてしまう。(せっかく良い仕事をしているのに)もったいない」というような指導を初学者にしていた。

アヤシイものはなぜちゃんと引用をしないのだろうか?
悪意や思い込みでやっているからであろう。
悪意でやっているのなら、その分野の先行研究を尊重する気などないだろうし、デタラメなのだから論理的にやる気も勉強する気もないだろう。
むしろ、ちゃんと科学的にやっているように装うために、いわゆるハゲタカジャーナル(粗悪なオープンアクセスのジャーナル)のような雑誌に投稿して、それを引用しておくぐらいはするかも知れない

思い込みだけでやっていて引用がちゃんと出来ていないのは、研究不足・勉強不足だ。
普通は、思いついたことをある程度煮詰めたら、同じ事を調べている先行研究がないかを調べる。すでに誰かがやっているのならばそれに越したことはないし、関連した研究は必ず見つかる。
ソレらが自分の思うような結果でないならば、煮詰めた自分の考えと併せて先行研究のの改良をして再実験すれば良いし、ぐうの音も出ないような優れた実験計画だったのなら自分の発想がおかしいと考えの方を修正する。
よく初学者が口にする「関係した研究がない」は、単純に検索能力が低かったり、自身の研究すら浅く狭くしか理解していないために生ずるもので、
「斬新なもの」でも既存のものとの比較や、思いもよらないところからの引用があるものだ。
引用がないというのなら、他者との比較や勉強という当たり前の作業もしていない(ちゃんと考えてない)のだし、そもそもデータの質や真偽すらも気にしてないのかもしれない。

ちゃんとした引用をしないということは、まともな人と議論していないということであろうから、(たとえ天才であっても)考えが浅くなったり、偏ったりしがちだ。
科学的な知識が質的にも量的にも拡がった現代は、一人の脳ではフォローできない部分が多くある。ソコを優れた他者との議論で補って、良い仕事になる。

深く考えることをせず情報の質すらも見分けられないようなアヤシイ人間が言っていることは当然、信用に値しない。


研究という意味では、
査読論文を投稿しないのも、うさんくさい。

査読論文とは、その道の専門家が研究の新規性や妥当性をチェックした論文のこと。
たとえ挑戦的な、野心的な内容でも、中身が論理的でちゃんと書いてあれば通る。
挑戦的な内容を無闇にはじけばパラダイムの転換は起きなくなり、その分野の停滞につながるからだ。
中身に不備が無ければとにかく議論の場に挙げる。議論してダメなら放棄すれば良い。というのがおそらく研究分野問わずの基本姿勢だと思う。

クローン病は複雑な自己免疫疾患であるので、それに対して有効な新規の治療法ならば他の病気に応用できる可能性があり、
もし、従来の研究の枠を超える治療法ならば自己炎症症候群の研究のブレイクスルーになる可能性すらある。

クローン病の治療が出来る立場ならば、そのくらいのことは当然認識しているはずであり、それを認識しながら成果をしっかりと公表しないのは大きな罪である。
「診療が忙しい」「名誉がいらない」「論文を書くのが面倒」なんてのは理由にならない。
個人で治療できる患者数とは桁違いの世界中の人を救える可能性を黙殺していることになるからだ。

画期的な効果を謳いながら成果をちゃんとした形で公表できないのならば、いかにも嘘くさい。となる。


アヤしい治療に対してなんでこんなに嫌うかと言えば、
金がクソ野郎に流れていくことが、(嘘つきのクソ野郎以外の)誰の得にもならないからだ。そこに腹が立つ。
うさんくさい治療で被害者が苦しむのはもちろんのこと、意味のある治療をしている治療者へ報酬が流れないことで、治療法の改良や新たな治療法の開発が滞ったり、中止されたりする可能性がある。
それは患者すべてに返ってくる不利益である。

エセ治療を嫌うのは、自分が直接関わらなくても、巡り巡って不利益を被る可能性があるからなのだ。